知らなかった「国連憲章 53条 敵国条項」 日本は今でも世界の敵。 [父の残した文章]
昭和20年3月「河南大作戦」に参加、
昭和20年8月13日終戦を知る。
25日間歩き続け、
雨が降り涼しかった9月、山東省に入る、
昭和21年5月まで 鉄道沿線整備に従事。
山東省より山口県仙崎港に上陸、
昭和21年5月15日復員。
北海道の知人の家に行き仕事を探すが、炭鉱もダメ、農業もダメ、
帰京の船上、風の冷たさに自殺をためらう。
上野松坂屋にて清掃、運搬の雑役から始めるが、
商売は自分には向かず退職。
昭和23年春より、米軍兵舎の整備と芝浦(東京都港区)より米軍物資の荷揚をする、
秋より、49米軍病院にて清掃、ガラス器具の煮沸消毒の従事した。
父の遺骨を持って行く、妹と友人も来てくれた。
(納骨の事)
一度結婚するが、
当時、女の「新興宗教」 が恐ろしくなり離婚。
失意の中、昭和26年 自分の仕事「旋盤」を探しに飯田橋の職業安定所に行く、
下丸子(東京都大田区)の米軍下の自動車の修理工場(三菱重工業)に転職し、
「朝鮮戦争」で故障した車輛の修理冶具の製造に就く。
昭和29年4月 再婚、長男を授かる。
昭和32年 神奈川県横須賀市 追浜兵器廠に移動、
昭和33年 追浜兵器廠閉鎖。
昭和34年8月迄失業保険を受給する。
以上↑ 父の残した記録。
父は「戦争経済」の恩恵があったから、
「旋盤」という「生きる自信」を取り戻し、
両親は二人目の子供、「私」をつくらなかったと思う。
でも、多くの知らない命が失われた。
国連憲章 53条 敵国条項
第二次大戦中の敵国であり、
解釈により様々な国が敵国とされているが、
ドイツと日本は常に敵国認定されている。
敵国=ドイツ・日本
国連加盟国は、いかなる戦闘行為も安全保障理事会の許可が必要となるが、
例外的措置として、「日本及びドイツ他の敵国」が侵略政策の再現を目論んだと想定された場合、
これを防止する意味での戦闘行為は例外敵に許可される。
つまり、戦争の準備を始めていると近隣諸国が「判断した」だけで、
「日本とドイツには攻撃していい」と国連は認めている。
参考図書 苫米地英人著 「アベノミクスを越えて」読んで初めて知りました。